サンプル
虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ
『虎穴で飼われる仔は虎をのぞむ』サンプル(※本は縦書きのため、一部サンプルと記号等が異なります。)
「境の歳に飼い飼われる仮初」(書下ろし)
一
ベッドで仰向けになって雑誌を眺める。この年季の入った雑誌と天井の組み合わせは、もう何度見たか忘れてしまったけれど、ぺらぺらと雑誌を捲っては、飽きずにまた最初のページに戻る。寝転がっていた姿勢を変えようと、横に体を倒す。すると、隣で寝転がっていた信一に肘で押し返された。
「十二、俺をベッドから落とす気か?」
「あ、悪い。このベッドって、こんなに小さかったか。もっと大きかったはずだ」
雑誌を脚の上に置いて体を起こす。改めてベッドを見てみる。大人一人が寝たら、いっぱいになってしまう、いたって普通の一人用のサイズだ。昔は二人で余裕に使えるほどでなくても、もう少し大きかった気がする。
「このベッドが小さいんじゃない、俺たちが大きくなっただけだ」
「そうかもしれないけど、昔俺たち二人で寝てても、広かった」
「確かに、俺たち二人で寝てたとき、狭いなんて思わなかった。懐かしいな」
信一は立ち上がる。読んでいた漫画をベッドサイドの棚に投げて、伸びをする。
「で、俺の部屋で思い出話をするのもいいけど、ここ最近、ずっと入り浸ってるのは何でだ? またここに住むか、十二?」
「この雑誌が読みたいだけだ。住むほどじゃない」
「へえ、古いファッション雑誌がそんなに面白いのか。店で埃を被ってたやつだ」
「あえて昔、ってかっこよくないか? ほら、古典的、伝統的っていうのか。そういうファッション」
「気をつけないと古くさくなる」
素っ気なく答えた信一は、俺が脚に置いていた雑誌をぱっと取った。返せと言いたかったけれど、この雑誌は自分のものじゃなかった。信一が黙ってぱらぱらと目を通すのを、口を曲げて見ていた。
「確かに、言われてみると、案外いいかもな。レトロっていうのか、クラシカルっていうのか。俺たちには難しそうだけど」
「格好つけて言い直しただけ?」
「うるさい。一周回ってむしろ新しく感じるってことだ。でも、お前がファッションに興味を持つなんて意外だ。この雑誌、気に入ったなら持っていけよ」
「え、いや、ここで読めればいい」
「お前が雑誌を読むためだけに、この部屋の半分を占領してるのはいいのか?」
腕を組んで目を細めた信一は、演技がかった意地の悪い表情をしている。真新しい服を着せられて、ウィンドウに並べられた新入りのマネキンくらいぎこちない。この友達には悪巧みとか、冷たい振りが全然似合わなくて、くすりと笑ってしまう。
「何を笑ってるんだ?」
「そう言うくせに、俺が来なくなったら寂しがるだろ」
「寂しがる? 俺が? もう子どもじゃないんだぞ」
「俺がここ最近ずっと来てるのに、信一は部屋に入れてくれる。店の方にいると、二人で遊べないからって」
「お前を放っておくと、部屋に入れろってうるさいからだ! とにかく、龍哥も雑誌くらいやるって言ってたから、持っていけよ。持ち帰れない理由でもあるのか?」
「あー、うん、……虎哥や兄貴にあんまり見られたくない」
「何でだ? こういうファッションは、虎哥が詳しいだろ。教えてもらえばいい」
頭を後ろに傾けて、うう、と唸る。信一になら話していいか。たぶん大丈夫だ、隠す方が面倒くさい。俺は隠し事がうまくないし。
「その雑誌に載ってる、虎哥みたいな服とか着てみたいけど、そういうのがばれたら恥ずかしい。兄貴たちに散々からかわれるのが目に見えてる」
「その気持ちは分かる。今どきこんな雑誌を持って帰ったら目について、どうしたんだって絶対聞かれる」
「だろ? 最近の雑誌なら気にされないけど、この雑誌はだめだ」
お互いに頷き合う。信一は仕方ないなと苦笑して、雑誌を本棚に入れた。
「この雑誌は俺の部屋に置いておく。いつでも読みに来いよ」
「ありがとな、信一!」
「誕生日も近いから、これくらいやってやる。十二はかわいい弟だからな」
「かわいい弟はやめろ。同い年だ。せめて、俺が兄貴だ」
「そうか? 俺の方が兄貴っぽいと思うけど」
「どこがだよ。九龍城砦だと、長く住んでるお前の方がみんなに慕われてる。でも、だからって俺の兄貴を名乗れるほどじゃない」
「ふーん、今からいい服屋に連れていったとしても?」
信一は腰に手をあてて、得意げに胸を張っている。その余裕な態度に、俺はなるべく興味がないように見せるため口を尖らせ、眉間を寄せた。
「いい服屋?」
「近所で、古着とか、着れなくなった服を直して売る服屋がある。クールでセンスがいいんだ。俺も買って着てたら、龍哥に褒められたくらいだ」
「仕方ない、今日だけは信一が兄貴だ」
「物分かりのいい弟だな。今日だけってのは、癪だけど」
「まあいいだろ」
自分でも調子がいいなと呆れてしまうくらい、ぱっと笑って肩を竦める。信一は溜め息をつきながらも、俺の肩を叩いて外に行くぞと手を振った。ベッドから立ち上がると、信一は先に部屋を出ていった。あとを追って理髪店に来た客で騒がしい店内を横切る。龍哥と顔馴染みの客に出かけてくると声をかけて、素早く店を出た。少しでも出るのが遅れると、お菓子を渡されて世間話が始まったり、子どもたちの遊び相手に選ばれたり、龍哥からお使いを頼まれたりして、大変だ。
信一は入り組んだ通路をさっさと歩いていく。しばらく進むと、あまり来たことがない一画に入った。少し見覚えがある気がして、よく思い出してみる。ふっと記憶がよみがえる。一三の頃、信一と遊びに何度か来たことがある場所だ。工事や解体であちこちが変わっていて、すぐには思い出せなかった。
さらに細い通路に進むと、がたがたと機械の音が聞こえてきた。通路の端には大小様々な箱が積まれていて、布や糸、服、紐、が詰め込まれている。壁にはいろいろな店の名前が書かれ、ビラが貼られているけれど、服屋や布に関する店が多い。
「すごいなここ、こんなに服屋が集まってるのか」
「そう。服の手直しもしてくれるし、古着、靴、鞄、服の材料まで売ってる。とにかく服に関する店が集まってる。いつからか忘れたけど、腕のいい仕立て屋が来て、その店が材料を買いたいって布の問屋ができて、その流れでこの一画はできた」
「一日かけても見きれないな。龍哥の店からも近いし、近いうちにまた来たい」
「気に入ったな。十二が好きそうな場所だと思ったんだ」
振り向いてにやりと笑う信一に、俺のことが分かってるじゃないかと首に腕を回して、隣に並んで歩く。
「目的の店は一番奥にある」
「早く行こう、楽しみだ」
箱で狭くなった通路を進むと、先が人で固まっていた。何かあったかと、信一の歩みが遅くなる。俺も合わせて、あたりを見回す。どこも異変はなさそうだし、変な臭いもしない。ただ、周りの人が妙にざわついている。
お祝い事があったとか、何かの記念日の準備をしているとか、そういう雰囲気ではない。何か危ないのでは、と不安がっている気がした。九龍城砦で問題事といえば、異臭がしてガス漏れだと大騒ぎになった、水道管が壊れて部屋が水浸しになって使えなくなった、そういうのが半分くらい。残り半分くらいは、人間関係で揉めて喧嘩したならかわいいもので、金や薬物を巡って起きた流血沙汰、黒社会の中でも特に碌でもないやつか、人を傷つけることに何も思わないあくどいやつが起こした事件。つまり、誰かが傷ついた、攫われた、死んだ、死んでいた。胸が苦しくなるものだ。
背伸びをしてみる。人の頭ばかりで、なかなか前が見えない。隙間から何とか見えたのは、派手なシャツを着た男が三人いて、店の前に置いてある物を蹴り飛ばしている。ときどき、がちゃんと壁や床に物がぶつかる音がする。信一の耳元に口を寄せ、声を潜めて話す。
「嫌がらせみたいだな。最近龍哥のところに来たやつじゃないよな」
「あんなやつ、龍哥は認めない。見たことない顔だ。どこからやって来たんだ?」
ばんと叩きつけるような音がした。前に立っていた人たちが一歩引いた。俺たちはその隙に前に出て、何が起こっているかを見に行った。
「早く金を出せって言ってるだろ!」
「うるさい! 商売の邪魔をするなって言ってるだろ。さっさと帰りな!」
店の人らしい女性が男たちを一喝する。でも、その人の背中には小さな子どもがいて、庇うために無理に強気で立ち向かっている気がした。
「邪魔? 家賃を払ってもらったら、やめるって何日も前から話してるだろ」
「前月も、今月も家賃はもう払ったって言っただろ、龍哥に確認すればいい」
「部屋代は払ってもらってるがな、店を出すための家賃がまだだ」
「そんな金が必要なんて、一度も聞いたことがない。馬鹿を言うんじゃない」
頷きそうになった。家賃以外に龍哥が要求するなんて、あり得ない。もしあったとしても、契約書にちゃんと書くようにしている。ちらりと信一を見ると、同じなのか頷いた。俺は耳元に口を近づけて囁く。
「信一、あいつらをやっつけようぜ」
ぱっと信一は後ろに下がり、首を振った。
「無茶はやめろ。誰か呼んでくる」
「その前に大変なことになったらどうする」
「忘れたのか、十二。前、酷い目に遭った」
もちろん、一度も忘れていない。きっと信一も同じだろう。
俺のせいだ。あのとき、俺が一緒に逃げて、誰かを呼びに行っていれば。
舌打ちしたくなった。思い出すな、後悔するな、怖がるな。あれは、とっくに過ぎたこと。今は変わらない。なら、今の俺にできることをやれ。
「でも、俺たち、強くなっただろ。あのときより、ずっと」
もう負けやしない。確かに怖かったけれど、ここで逃げたら、もっと怖くなりそうだった。これから同じことに出くわしたら立ち向かえなくなるのが、最も怖い。信一は俺の答えに力なく笑った。
「そうだな、やってみるか」
「危なくなったら、引く。すぐに龍哥に報告だ」
「分かった。怪我するなよ。弟」
「お前こそ、兄貴」
お互いにふっと笑い合っていると、がしゃんと大きな音がする。店の方へ顔を上げる。男たちが何かを蹴飛ばして、今にも店の人の胸ぐらを掴みそうな勢いで怒鳴っている。あたりに何か、武器になりそうなものがないか急いで探す。さすがに手ぶらで突っ込むほど無鉄砲じゃない。こんなことなら、木刀でも持っていればよかった。いざとなれば、そのあたりの箱か椅子で殴りかかろう。
最後の手段だけれど、何もないよりましだ。目を皿にして探す。段ボールの隙間に鉄パイプやレンチが置かれたままになっている。工事か修理をして途中のまま放っていったみたいだ。人の隙間を縫って、鉄パイプを取る。使い慣れた木刀には及ばないが、即席の武器としては文句なしだ。後ろにいる信一にも渡す。
肩をぶつけ合い、頷いた。前に出る。周囲の人が引いた。俺たちが何かしようとしている、そう察して下がっていく。巻き込みたくないから助かった。
「おい、お前たち! ここを誰が管理してるか、分かってるのか。龍哥が知ったら、ただじゃ済まないぞ」
信一がそう言って、鉄パイプで床をどんと突く。男たちがこちらに少し緊張した顔を向け、すぐに軽薄な笑みを浮かべた。子どもが何を言っている、そんな顔だ。
「うるさいガキだ。その龍哥は今いないだろ。痛い目を見ないうちに帰りな」
「ふざけるなよ! 帰るのはお前たちだ」
鉄パイプを真正面に突き出し、構える。男たちは鼻で笑ってくる。睨みつける。
「威勢がいいことを言いやがって、何もできねえだろ」
一人の男が店の人に手を伸ばす。胸ぐらを掴もうとしている。
床を蹴って飛び出す。ほとんど反射だった。
鉄パイプの先をわずかに下げておく。
胸元に届きかけていた男の手、その斜め下。鉄パイプを滑り込ませる。
手首で鉄パイプを跳ね上げ、男の手を弾く。
がんと鈍い音がした。悪くない一撃。
これが刀だったら、手を跳ね飛ばせていた。
「痛えっ……! このガキっ、ふざけんな!」
怒鳴ってる暇があるのか。ありがたい隙だ。
さっと腕を落とす。喚く男の脇腹を容赦なく殴った。
そいつの体が崩れ落ちるのを見て、信一の方に目を向ける。
信一は近くにいた男を一人打ちのめしていた。残った最後の男が、殴りかかろうとしていた。
「信一、伏せろ!」
ぱっと信一は屈んだ。
その背中に、飛び込むように仰向けで乗った。
体を横に倒す。鉄パイプを構え直す。
さあ、かかってこい。
今まさに信一を殴ろうとしていた男は、目を丸くしている。俺が急に目の前に現れたのが信じられないか? それでも、振り上げた拳で俺に殴りかかろうとする。
惜しい。俺の方が速い。
信一の背中から落ちる直前。
喉元目がけて鉄パイプを突き出す。
鈍い衝撃。ぐっと息が詰まる音。痛そうだ。
重力に任せて、信一の背中から着地。
喉を掴んでうずくまっている男の腹を蹴り飛ばす。小さく呻いて体を曲げた。これでは立てもしないだろう。
やり過ぎたか? かすかに同情が揺らぐ。
かわいそうだったかもしれない。でも、やらないと、俺が負けていた。たとえ負けたとしても、殺されはしなかっただろう。精々痛めつけられるか、辱められるか。でも、殴られるのはごめんだし、昔のような目に遭うのは絶対にお断りだ。
「十二、大丈夫か?」
「大丈夫。信一は」
「俺も。早く龍哥を呼んでこよう」
ふうとお互い息をついて、拳をぶつけ合う。男たちが逃げないよう見張って、誰かに龍哥を呼んできてもらおう。
「信一は龍哥のところに。こいつらは俺が見張っておく」
そう言って、うずくまる男にしゃがみ込む。腕を掴んで床に押さえつけようとすると、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「すまない、通してくれ!」
「龍哥! こっちだ」
聞き慣れた声に、信一が手を振って応えた。人だかりをかき分けて、龍哥と何人かの手下がやってきた。どうして来たんだろうと不思議だったけれど、ここは理髪店の近所だ。信一か俺を知っている人が、呼んでくれたのだろう。俺は叩きのめした男たちを順番に指さして、説明する。
「こいつら、店の人から金を脅し取ろうとしてた。手を出しそうだったから、俺と信一でやっつけた」
「それでこんな騒ぎになっていたのか。おい、この三人を連れて行け。この区画で賃料を巡る問題が増えていたが、その件についてもたっぷり話を聞かせてもらおう」
俺は立ち上がる。龍哥の手下が男たちを連れて行くのを見届けた。
ここから先は、俺にできることはない。ずっと持ったままだった鉄パイプを、通路の端に放り投げる。さすがに、もういらないはずだ。握りしめていた手は気づかないうちに相当力を籠めていたのか、痺れて震えている。信一も鉄パイプを放った。
「さっきは、ありがとう。助かった」
声に振り向く。店の人だ。何度か瞬きして、ひとまず頷き返す。
「えっと、怪我してないですか」
「ああ、ないよ」
「よかったです」
「君たちのおかげだ。大の大人によく立ち向かってくれたね」
「でも、俺たちが出しゃばったせいで、危ない目に巻き込みかけました。……もっとうまくやればよかった」
話していると、鼻の奥が痛くなった。泣きそうだ、悔しい。あと一歩間違っていれば怪我をさせていた。別の方法があったはずだ。今になって、自分がしでかしたことがいかに危ないか分かってきた。
「すみません」
そう言ったけれど、顔を上げられない。信一が代わりに話してくれる。
「あとで何かあったら、龍哥の店に来てください。近所の理髪店です。もし怪我をしてたら、いい病院を紹介できます。他に被害があったら相談してください」
肘で小突かれる。頷いて、信一と一緒に店から離れた。龍哥と店の人が、さっきまで何が起きていたのかを話している。俺は軽く鼻をすすって、こぼれた涙を手の甲で乱暴に拭った。最後に深呼吸、これでもう大丈夫だ。周りにいた人が減ってまばらになった頃、話が終わった龍哥に背中を叩かれて、理髪店まで戻った。店に入ると、誰もいない。しんとしていて落ち着かない。
「お前たちが大人相手に喧嘩していると聞いて、店は閉めた。仕事など、とてもできない。気が気でなかった。……二人とも、無事なんだな。怪我はないな」
窓辺に立った龍哥が、尋ねてくる。目を細めて笑っているように見えるけれど、余裕のない表情だ。無理に笑おうとして、普段と同じ態度を保とうとしている。
「怪我はない。俺も信一も大丈夫」
安心させたかったのに、返ってきたのは溜め息だ。龍哥は煙草に火をつける。
「無事でよかった。だが、お前たちはまだ子どもだ。無茶をするな。いや、こんな説教臭いことを言っても、聞かない年頃だな」
ふうと煙を吐いて、笑った。
「ごめんなさい。信一も巻き込んだ。もうしない」
「もう俺たちだけで勝手はしない。龍哥、約束する」
信一と一緒に謝って頭を下げると、龍哥は俺と信一の目の前に立った。そして、勢いよく頭を撫でられた。
「二人であんな無茶をするな。ああいうことは、もっと大人になって、強くなってからやるものだ。まず俺を呼べ。喧嘩に呼ぶには、俺は頼りないか」
「そんなことない、ごめんなさい、龍哥。ずっと頼りにしてる」
撫でられる勢いがあまりにも強くて、つい笑いながら言った。
「分かった、喧嘩するときは十二だけじゃなくて、龍哥も誘う、忘れない」
信一も楽しそうに震えている声で言った。頭上から軽い笑い声がした。
「それでいい。気をつけろ。だが、十二、お前はもう少し気をつけてくれ。虎哥の子どもを怪我させたなんて、どう説明すればいい? 俺が取って食べられる」
「俺のせいって説明する。信一は俺をとめてくれた。龍哥はあの場にいなかった。俺がするって決めたんだ。理由があるって分かってくれる」
「そう言っても、責任は俺にある。虎哥が大切にしている子を、怪我させたらとんでもない。信一と十二を守れないなんて、親失格だ」
「でも、仕方なかった。龍哥を呼んでたら間に合わなかったかもしれない。悪いのは店の人を脅してたあいつらだし、俺たちが龍哥を呼びに行かなかったこともだろ。それでも、だめ?」
「それでも、だ。大人はそういうものだ」
融通が利かない。大人は難しくて、複雑に考え過ぎだ。この複雑さは、大人の優しさでもある。口を尖らせて、ほんの少しだけ呻いたあとで頷く。分かってる、これは子どもを心配する大人の優しさ。だから、俺も甘えている。
「不満だろうが、大人になれば分かる。あと、今日は虎哥に迎えに来てもらおう」
「どうして?」
龍哥と虎哥の二人に説教されるのは、あまり想像したくない。背筋を伸ばして身構えてしまう。
「お前たちが喧嘩した相手が、どこか大きな組織の者だったら? 報復に来るかもしれない。虎哥に迎えに来てもらって、報復できる相手ではないと示してもらう」
「そこまで考えてなかった。ごめん、やっぱり俺は無茶をしたんだな」
「気にするな。だが、虎哥が来るまでお前たち二人は店から出るな」
信一と一緒に大人しく頷く。それから、店にある雑誌や漫画で時間を潰した。
店の窓辺にあるソファに座って信一と雑誌を眺めているうちに、暖かい陽射しが心地よくてうとうとしてしまう。隣の信一に寄りかかって目を閉じると、瞼が重くてそのまま眠ってしまった。窓から入った風で、腕や首が冷たくなって目を開ける。
外はもう日が暮れかかっている。部屋の明かりに目を細める。
「起きたか」
「信一。虎哥は?」
「まだ。もう少しだろうって、龍哥は言ってたけど」
腕を伸ばして、欠伸をする。足音が聞こえた気がした。耳を澄ませる。一つの塊のような足音。大勢が歩いているのか。虎哥だろうか。立ち上がって店の出入り口に向かう。すると、扉に嵌め込まれたガラスの向こうに大きな人影が現れて、立ち尽くした。息を飲む。虎哥だ。店の奥から龍哥が来て、扉の鍵を開けた。静かに入ってきた虎哥の後ろには、何人も兄貴たちがいる。俺のせいだと体が強張る。
「来てくれたか、虎哥。十二は無事だ。いろいろ心配かけてすまなかった」
「いや、十二がやったことだ。龍哥が謝ることじゃない。喧嘩相手は何者だ?」
「金のない犬どもだった。背後に大物がいると喚くから調べたが、たいした知り合いもいなかった。報復の心配はないだろうが、俺たちで厳しく躾けておく」
「頼む、そうしてくれ。俺の子に手を出したようだからな。……十二」
龍哥と話していた虎哥が、俺を呼んだ。頷いて虎哥の目の前に立つ。
「怪我はないな」
「ない。信一も俺も無事だ」
怒られると、手を強く握りしめた。けれど、背中に腕が回されて優しく抱きしめられた。煙草の匂いがして、なぜか泣きそうだった。自分がしでかしたことで龍哥と虎哥をどれほど心配させたか、やっと実感できた。
「無事でよかった」
頭上から聞こえた虎哥の声に、浅く息を吐く。体が離れる。
「ごめんなさい、心配かけて」
涙が溢れないよう目を見開き、虎哥を見上げる。
「信一も無事だった。お前たちはよくやった」
泣かないつもりだったのに。涙が頬を伝い落ちる。手の甲で涙を拭い、俺は笑う。
「ありがとう、虎哥」
「帰ろう」
頷いた。帰る場所があるのが、無性に嬉しかった。
虎哥と店を出るとき、龍哥と信一に明日また来ると言った。今日の出来事がまったく怖くないとは言えない。けれど、遊びたい気持ちを抑えられるほどではない、寝て起きれば、綺麗さっぱり忘れてしまえる。
前の俺とは変わった。身長が伸びて、筋肉もついてきた。武術の腕が上がったと褒められることが増えて、刀を持っても重さを感じにくくなっている。ただ、もっと違う、外から分からないどこかが、言葉では説明できないけれど、確かに変わってきている。どこが変わったか、それは分からない。心、精神というものなのか、子どもの俺が大人になっていっているのか。妙な感覚だ。俺は変わっていないつもりでも、いつの間にか成長して、何かが勝手に変わっていく。
暗い通路を歩きながら、隣にいる虎哥の顔をちらりと見上げる。サングラスをかけている隙間から、白い義眼が見えた。薄闇の中でも光っているようだ。虎哥の背後を回って、左手を握った。握り返される。大きな手だ。でも、大きいと感じる隙間は、成長していく俺の手が段々と埋めていっている。いつか、大きいと思わなくなるときが来るのだろうか。
「怖い思いをしたか」
「少しだけ。もう平気だ」
顔を上げる。虎哥と目が合った。今は見ていてほしかった。
「虎哥たちが迎えに来てくれたから」
「迎えに来た甲斐がある。だが、次からは気をつけろ」
俺の手を握る虎哥の手に力が入る。心配しないでと言いたかったけれど、黙って頷き返す。
「……ここの住人を守ったと聞いた。お前がやったことを手放しに褒められないが、よくやった。お前はいい子だ」
「ありがとう。虎哥のおかげだ。俺、強くなったんだ」
「ああ、強くなったな」
虎哥の口元が笑った。俺も笑い返して、手を握り返した。
公開:2026年10月4日
更新:2026年10月4日